青春の思い出の街 YOKOHAMA 偉大なる地方都市

石畳の坂を登れば海の見える丘に出た

防波堤に当たる波間に俺を呼ぶ声が聞こえた

どんなに離れても決して忘れなかったよ

朽ち果てた俺の家と鉄のフェンス



高校生でキャロルの洗礼を受けたオレはエーチャンにあこがれ学校を選ぶ時迷わずヨコハマを選んだ。

尾道生まれのオレは潮風のする街でないと生きてゆけない。

都会に出ていろんな経験をしてBIGになるぞ!

当時は関内駅から造船所が見え、本牧、山の手には米軍のPXやらベースがあった。

山の手の一等地には米軍住宅があった。やっぱり、日本は敗戦国なんだなあと思った。

本牧あたりで遊んでいると若いネイビーもたくさんいた。

柳ジョージの唄そのままのヨコハマがあった。

フェンスの向こうは本当にアメリカだった。



成り上がるぞと思っていたのだが、見事に成り下がって尾道に帰ってきた。



それでは以降、ヨコハマでの経験や出会ったアツイ男たちの話をしよう。

おかげでオレの人生は狂ってしまったのだが、、、、、、。


オレがヨコハマに行ったのはもう28年も前のことだ。何から話そうか?

ヨコハマに知り合いもなく土地感があるわけでもなく親も裕福ではなかったので、とりあえず新聞屋に住み込みで転がり込んだ。新聞奨学生という奴だ。朝刊の配達だけだと思っていたので楽勝だと思っていたのだが、なんと夕刊と言う物があった。尾道じゃあ夕刊は無かったぞー。午前3時半から4時に起きて、朝刊の配達が終わるのが7時半だった。ちょっとだけ学校に行って夕方の3時半から4時には夕刊の配達が待っている。夕刊の配達が終わるのは夜の7時半くらいだ。港南区の上大岡という場所の販売店に配属になった。しかも選んだ新聞社(S経新聞)が悪かった。カブに乗って配達するのだが、走行距離は1日あたり100キロ近くにもなる。1件配達したら次の家まで5〜6キロも走らなくてはならない。俺の配達区域の中に他の新聞社の販売店が何店もあるのだ。ということはいかに売れてない新聞だということか?

ものを知らないと言うのは恐ろしいことだ。

それでは次回から新聞屋でのエピソードやら面白い経験を話そう。



新聞の配達と集金だけだと思ったら、拡張(セールス)もやらされた。新聞配達は小学生の頃家の近所を配ったことはあるが拡張なんてやったことないぞ〜。セールスの方法も教えてもらった。いいか?”コンチワ〜”といってドアが開いたらバタンと閉められないように片足を突っ込むんだ。断られても簡単に引きさがっちゃあダメだぞ。後は拡材(サービス品)をちらつかせながら3ヶ月契約していただけたら1か月分はサービスにします。とか6ヶ月契約いただけたら毎月洗剤を持ってきますから、等といってとにかく契約を取って来い!

オイオイ、こんなことをするためにヨコハマに来たんじゃあないがなあ。





早朝にカブに乗って新聞を配達していてオレは思った。

オレって都会の中で新聞という情報を運んでいる小さなアリンコなのか?

このままじゃあ済まさんぞ。アリよさらばじゃ。


それでは次回は集金に行って危うく刺されそうになった話をしようか。





その契約は専業の拡張員(カスのような連中が多い)が取ってきたものだった。

そうとは知らず俺は毎朝新聞を届ける。

たぶん独身、労務者風、そして入り口に酒の瓶がたくさんあるアパートだった。

そして月末になり集金にうかがうと、コンチワー3K新聞です。集金にうかがいました〜。

アーン、そんなもん頼んだ覚えは無いぞ。

いえいえ、だってほらここに購読の申込書にサインと印鑑があるじゃあないですか〜。

アーン、何で払わなきゃいけないんだ。

そんなこと言わないで払ってやってくださいよ。お金あるんでしょ。

金は今無いんだ。

いや、それじゃあ俺もこまりますから、、、、、、、。払っていただかないと。

これだけ言ってもまだ判らんのか!

バーン!

何事かと思ったらいきなり刃渡り30cmはあろうかというサシミ包丁が、、、、、、、、、。

ウツこれで刺されたら背中に抜けるなおもわず後ろにとび間合いを取った。

だがおれも19か20だったのでひるまなかった。

ナンジャコラーあんたが寝ている間にこっちは眠いのに毎朝配達しとるんじゃ。

このまま手ぶらで帰る訳にはいかねえぞ。

男が契約書にサインしたのならさっさと払わんかい!

その男刺しに来るかと思ったらポケットからクシャクシャの5000円札を突き出した。

つりはー?

つり銭を探る間、目線をそらすのが怖かったが

つりはイラン!

ラッキー!

そのまま後ろを向くと刺されそうなので後ずさりしながら集金は完了した。

そのご新聞販売店にそいつから電話があり飯代がほんとに無いのでつりを返して欲しいとのこと、、、、、、、。

まったくなさけない男だった。しかし度胸だけはついたぜ。



今にして思えば俺には売掛債権取立て業のほうが向いていたのではないだろうか?

19、20の頃の話でした。

それにしても出された物がチャカじゃなくてよかった。弾かれてたら今ごろこんなHPを作ることも出来なかっただろう。





さて次ははじめて見たスーパーカーの話でもしようかな。



その朝もいつものように新聞を配達していた。

信号待ちしていると天気がいいのにどこからとも無く雷鳴のような音がする。

にわか雨でも降るのか?

しかしとどろくような音がだんだんと近付いてくる、、、、、、。

そして、横に並んだのは真っ赤なミウラだった。


後ろからは4本のサイレンサーが突き出ている。

音はCB750の集合管の芯を抜いたよりも10倍くらいデカイ。

こんな車が世の中にあったのか!

こんなものが公道を走ってええんかー。

信号が青に変わると3Km先まで響き渡るような音をさせながらミウラは走り去ってしまった。

スーパーカー初体験だった。

5分くらい俺はその場から動けないでいた。

新聞を配達しているといろんな家があることを思い知らされる。

例のサシミ包丁を出すような家もあれば、敷地面積1000坪はあろうかという豪邸もあった。

集金の時にそこの奥さんに言われた。

新聞なんか配ってないでウチのゴルフ場でアルバイトでもしたら〜。

今よりお金ならたくさんだせるわよー。

田舎モノのおれはゴルフはライオンズクラブに入っている人しかしてはいけないモノだと思っていたので、

その話は断ってしまった。

今考えるとオレってなんて世間知らずのトージンなんだろうか。





初めて手に入れた ナナハン CB750K-1(チューブル)15の頃からの夢だった


小学生の頃、叔父さんに乗せてもらった単車のリヤシートの上で、俺はスピードの魅力にに目覚めた。

高校生のころCB250には乗っていたが、ナナハンは俺のひとつの夢だった。

いまじゃあ二輪で2000ccなどという排気量もあるし、1000ccを超えるオートバイなんて

街中にゴロゴロしているが、当時は国産最大排気量であり、当時の俺にとっては

現実的に手に入れることのできる最大、最速のオートバイだった。


カワサキのZ-2もカッコいいとは思ってはいたが、テールカウルがカッコ付けすぎの様な気がしたし、

何より排気音がヒュルヒュルと軽いのが嫌いだった。

CB750はジュオン、ジュオンと重厚な音がするのだ。

そして何よりHONDAは世界最高のオートバイメーカーだと信じ切っていた。

この思いは後に裏切られることになるのだが、、、、、、、。





世界最速を手にした俺はとにかく毎日、毎日走り回った。

だれにも負ける気がしない。

とにかく横に並んだらいつでも勝負ジャ!あたりかまわず勝負を仕掛ける。

今思えばただのバカだ。

上大岡から鎌倉街道を抜けて鎌倉、七里ケ浜、稲村ケ崎、江ノ島、葉山あたりを走り回るのが毎日の日課だった。

ひどい時には一日2回も湘南方面へ走りに行った。

たぶん今でもこのコースは体が覚えてるんだろうなあ。

走りすぎてだんだんと大学に行かなくなってきた。

ここから俺の成り下がり人生は始まったのか?







俺はいつも単独で走り回っていた。元来、群れるのは好きじゃあない。

当時、新聞屋にはバイトの高校生が数人いた。

中型限定免許が施行されていたので、彼らは当時一番人気のCB400F(ヨンフォア)に乗っていた。

そのころは暴走族の全盛期、Fさんもいきましょうよー。と誘われる。

オイオイ、おれはもう20になるし、いちおう大学生だし、単車に乗って族の集会に行くのは恥ずかしくないか?

余り興味は沸かなかったが、あんまりシツコク誘うのでマアこれも経験と思い参加してみた。

ピエロというチームの集会だった。

ヨコハマの各地区の支部とその周辺都市からものすごい数の単車と四輪が集まってくる。

1支部が50〜100台とするとその合計は800〜1000台か?

集合場所に集まったメンバーは最初のうちは大声でバカ話したりバンバン吹かしたり、ホイールスピンして遊んでいたが、

族の頭が手を上げてルートの説明を始めると水を打ったようにシーンとする。

スゴイ統率力だと感心した。

アンタこのまま成長したらキット大物になれるぜ。



走り出したらこれがまたスゴイ。反対車線も埋め尽くして対向車もお構いなしだ。

タクシーになんかわざわざ突っ込んでいってギリギリのところでかわしていく。

現在の音だけの珍走団とちがいアクセルはほとんど全開ジャン。

前も後ろも見渡す限りクルマとバイクで埋め尽くされている。

一つの町からはみ出てるんじゃあないのか?

四輪は箱乗り、二輪は走りながら前後で運転を変わりながら疾走する。

スゴイな





何度か集会には行ったが、ある事故が起きたのをきっかけにやめた。

人間が火達磨になって燃えるのをはじめて見た。

身の毛も余立つ光景だった。

今でもたまに夢にでてくるぜ。


さてさて当分は新聞屋時代の話がつつきます。



ご期待ください